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意外に役立つ経営学が軽視されるワケ(上)

朝日新聞WEBRONZA 2011年9月27日
 昨年お知り合いになった若手の技術者の中に、驚くべき女性がいる。彼女(以下Sさんと呼ぶ)は、理学部生物学系を卒業して修士課程に入る際、工学部化学系へと専攻を変えた。その理由が驚くべきものだった。

 Sさんは修士課程中に、国際学会で発表するなど活躍したいと思った(筆者が修士課程に行く際、このようなことを考えたこともなかったので、まずびっくりした)。自分が国際的に活躍できるか否か、Sさんは、そのような視点で大学院の研究室を観察した。

 その結果、研究室ごとに、国際学会発表件数、論文発表数、外部資金獲得金額などのアクテイビティは大きく異なることが分かった。アクテイビティの大きい研究室に入れば、自ずと国際舞台で活躍できる可能性が高くなる。したがって、アクテイビティの高い研究室に入ればいい、という結論に至った。このようにして、Sさんは修士課程の研究室を決定した(単純に原子核物理をやりたいという理由だけで修士課程を決めた筆者は、このような戦略的な進路決定方法に驚嘆した)。

 その際、Sさんは、研究室のアクテイビティの違いは、何に起因しているのかを考察した。Sさんは、「教授のマネジメント能力」がアクテイビティの大小を決めていると確信した。なぜSさんはこのような分析ができたのか? それは、Sさんが、理系を専攻しながらも、趣味で経営学を独学していたことによる。例えば、マイケル・ポーター、ピーター・ドラッカー、クレイトン・クリステンセンなどの経営学の専門書を、趣味で勉強していたのである(いやはや恐れいった!)。

 筆者は、Sさんの分析「教授のマネジメント能力が研究室のアクテイビティを決めている」に大きく共感できる。それは、根は技術者である筆者も、経営学を学んだからだ。

 筆者は、日立、エルピーダ、セリートなどで16年半に渡り、半導体技術者を経験した後、紆余曲折を経て、経営学の研究者になった。物心ついてからずっと、理数系の道を歩んできたわけだが、日立を早期退職して以降、あれよあれよと運命の歯車が横転し、まったく予期しない文系の、それもまったく縁のなかった経営学を学ぶことになった。

 経営学には、物理学のような厳密な美しい法則は無い。再現性もない。それ故、こんなものが学問といえるのか、という意見もある(筆者も最初、そう思った)。ノーベル賞にも、「経営学賞」は無い(一方、現実の経済を説明できない「経済学賞」がノーベル賞に存在するのには、違和感を覚える)。

 しかし、経営学には、物理学とは違った面白さがある。人間社会によるモヤモヤした曖昧な現象の中に、ボンヤリと、法則らしきモノが見え隠れするのである。そして、その法則らしきモノは、組織、産業、国籍、時代の枠を超えて成立する(こともある←無責任な書き方だが、こうしか書けない)。例えば、前回の記事で紹介した「ピーターの法則」のように。

 そして、ボンヤリした法則の集合体である経営学の中に含まれる「マネジメント」は、企業を経営する一部のトップだけでなく、部長、課長、係長など、あらゆるポジションに必要な知識・素養である。また、研究者、技術者、教育者など、一見して経営と関係ない職種にも必要不可欠である。Sさんが見抜いた通り、マネジメント能力のない教授にまともな研究室運営はできない。

 ところが、日本では、経営学が軽視されている。第一に、企業のトップである多くの経営者がまともに経営学を勉強していない。その証拠に、いまだに「イノベーション=技術革新」と信じ込んでいる社長が多数いる(この盲信の弊害については2011年2月18日の拙著記事を参照下さい)

 もちろん、経営学を勉強すれば、一流の経営者になれるというものではない。しかし、経営学を学ぶことは経営者としての必要最低限のことであろう。

 例えば、半導体技術者になるためには、少なくとも半導体物理、電磁気学、統計力学、量子力学(のさわり)を学んでいる必要がある。そうでなければ、半導体(集積回路)が何たるかは理解できない。このような基礎がある上で、才能、経験、日々の勉学などがマッチングして、一流の技術者が誕生するのだろう。一流の経営者についても同様である。

 なぜ、日本において、経営学が軽視されているのか? これには二つの理由があると筆者は考える。その詳細は、次回、論じよう。