意外に役立つ経営学が軽視されるワケ(下)
朝日新聞WEBRONZA 2011年9月28日
マネジメントは、あらゆる職種、あらゆる職位に必要不可欠な素養である。にも関わらず、日本では、マネジメントの研究を含む経営学は軽視されている。それは何故なのか? 筆者は、二つの理由があると考えている。一つは偏差値教育に端を発する教育的な問題、もう一つは経営学などの社会科学が学問として認知されていないことによる問題である。
第一の理由を説明する前に、一つの実話を紹介しよう。筆者は、2003年10月に、同志社大学に赴任し、経営学の研究者となった。その直後、11月に大阪で開催された経営学のシンポジウムに参加した。終了後、大阪から東京へ帰る際(単身赴任していたので週末には埼玉に自宅に帰る)、シンポジウムの司会をしていた慶応大学の榊原清則教授と、たまたま新幹線の席が隣り合わせだった。
榊原教授は、日本の中の数少ない優秀な経営学者である(筆者もそう思うし、周りの人たちもそのように評価している)。一方こちらは初心者マーク付きの経営学ビギナーである。そこで、まず挨拶を兼ねて、これまで半導体技術者であったことなどの自己紹介をし、今後の研究の抱負などを述べさせて頂いた。榊原先生からは、東京に着くまでの2時間半、研究のアドバイスなど、たくさんのお話を聞かせて頂いた。その中で最も印象に残っているのは以下の通りである。
「君に一つ忠告をしておこう。日本の経営学の国際的レベルは極めて低い。一部に優秀な学者もいないではないが、そうではない学者の方が多いから、君の皮膚感覚で『まともだ』と思える学者とだけ、付き合いなさい」。
このお話を聞いたときは大変驚いたのだが、その後の5年間を経営学ムラ(原子力ムラと同じように学問の世界にはこのようなムラがたくさん存在する)で暮らしていると、この言葉の意味がしみじみ実感できた。学会発表を聞いても、論文や専門書を読んでも、いやはや、ヒドイものが多すぎる。率直に言って、読むに堪えないモノが多い。
例えば、筆者は半導体技術者だったわけだが、半導体企業や産業に関する経営学の研究を見聞きしても、「そんなことは半導体技術者だったら誰でも知っているよ」ということをさも大発見かの如く発表していたり、「そんな嘘っぱちをよく書けるな」と言う間違ったことを平然と論文にしていたり(査読者も半導体のことを良く知らないから論文になってしまうのだ)、専門家の筆者が聞いても「何を言っているのかさっぱり理解できない」不思議な内容だったりするのである。
こうした事態に陥っているのは、日本の偏差値教育に最大の原因がある。筆者はことあるごとに、学生や先生に「あなたはなぜ経営学を専攻したのか?」と聞いてみた。すると概ね次のような答えが返ってくるのである。
「大学入試の際、数学が苦手(または嫌い)だから文系を選んだ。文系の中で、もっとも偏差値の高い人は法学部を目指す(その頂点が東大文Iである)。以下、経済、教育、商学ときて、一番下が経営学部。自分の偏差値で入れるところは、○○大学の経営学部だった」。
つまり、消去法で自分の進路を選択しているわけである。少なくとも、経営学が好きだから専攻したわけではない。理系の多くが、「物理が得意だ」とか、「生物が好き」と言うような理由で進路を決めているのとは大きな違いである。
もちろん、偏差値で人の能力が正しく分かるわけではない。しかし、文系の中で、経営学は最も偏差値レベルの低い学部にランク付けされていることが、経営学軽視の第一の理由である(と思う)。
第二の理由。それは、経営学が学問として認知されていないことによる(特に日本では)。そもそも、科学(Science)には、自然科学(Natural Science)と、社会科学(Social Science)の二つの領域がある(人文科学も入れれば三つ?)。しかし、経営学が含まれる社会科学は、日本では科学とは認められていないようである。
例えば、筆者の記事が掲載される朝日新聞WEBRONZAの「科学・環境」ジャンルにおいても、タイトルにある科学とは、恐らく自然科学を想定しており、社会科学を含んではいないだろう(たぶん)。
本稿の(上)にも書いた通り、経営学の法則は、人間社会の中のモヤモヤした曖昧な現象の中にボンヤリと見え隠れするのであり、物理や化学の法則のように厳密ではないし再現性もない。しかし、物理や化学とは違った面白さがあるし、それなりに有用である。
少なくとも、研究方法は、物理や化学と同じロジックで行う。つまり、ある現象に着目し、先行研究を調べ、新しい仮説を立て、調査を行い、仮説を検証する。調査の部分が、物理や化学は実験であるのに対して、経営学の場合はヒアリングなどに置き換わるだけである(ヒアリングなどという曖昧な調査方法だから信用ならないという意見もあろうが)。
ここで、一つお断りをしておくが、筆者は経営学の信奉者でもないし擁護者でもない。筆者が言いたいのは、経営学はそれなりに面白いし、マネジメントに関する研究や法則のように企業活動などに有用なものも多いから、自分の仕事をより効果的に進めるために、偏見を持たずに学んでみたらどうかと言うことである。ピーター・ドラッカーを広めた「もしドラ」は、経営学が役に立つことをわかりやすく世に広めた。このような本を契機にして、経営学の世界を覗いてみればよいと思う。
さらに、自然科学者と社会科学者の連携、その複合領域の開拓も有意義だと思う。例えば、日本半導体をはじめ日本エレクトロニクスは国際的な競争力を喪失してしまった。これら企業および産業競争力の回復及び向上のためには、これまでと同じように技術開発をやっていてもダメである。経営学者(もちろんまともな学者)と、技術者および経営者が共同で、次世代戦略を立案したらどうだろうか。そして、大学では経営学の基礎を教養課程の必須科目にしたらどうかと思うが、いかがであろう。
第一の理由を説明する前に、一つの実話を紹介しよう。筆者は、2003年10月に、同志社大学に赴任し、経営学の研究者となった。その直後、11月に大阪で開催された経営学のシンポジウムに参加した。終了後、大阪から東京へ帰る際(単身赴任していたので週末には埼玉に自宅に帰る)、シンポジウムの司会をしていた慶応大学の榊原清則教授と、たまたま新幹線の席が隣り合わせだった。
榊原教授は、日本の中の数少ない優秀な経営学者である(筆者もそう思うし、周りの人たちもそのように評価している)。一方こちらは初心者マーク付きの経営学ビギナーである。そこで、まず挨拶を兼ねて、これまで半導体技術者であったことなどの自己紹介をし、今後の研究の抱負などを述べさせて頂いた。榊原先生からは、東京に着くまでの2時間半、研究のアドバイスなど、たくさんのお話を聞かせて頂いた。その中で最も印象に残っているのは以下の通りである。
「君に一つ忠告をしておこう。日本の経営学の国際的レベルは極めて低い。一部に優秀な学者もいないではないが、そうではない学者の方が多いから、君の皮膚感覚で『まともだ』と思える学者とだけ、付き合いなさい」。
このお話を聞いたときは大変驚いたのだが、その後の5年間を経営学ムラ(原子力ムラと同じように学問の世界にはこのようなムラがたくさん存在する)で暮らしていると、この言葉の意味がしみじみ実感できた。学会発表を聞いても、論文や専門書を読んでも、いやはや、ヒドイものが多すぎる。率直に言って、読むに堪えないモノが多い。
例えば、筆者は半導体技術者だったわけだが、半導体企業や産業に関する経営学の研究を見聞きしても、「そんなことは半導体技術者だったら誰でも知っているよ」ということをさも大発見かの如く発表していたり、「そんな嘘っぱちをよく書けるな」と言う間違ったことを平然と論文にしていたり(査読者も半導体のことを良く知らないから論文になってしまうのだ)、専門家の筆者が聞いても「何を言っているのかさっぱり理解できない」不思議な内容だったりするのである。
こうした事態に陥っているのは、日本の偏差値教育に最大の原因がある。筆者はことあるごとに、学生や先生に「あなたはなぜ経営学を専攻したのか?」と聞いてみた。すると概ね次のような答えが返ってくるのである。
「大学入試の際、数学が苦手(または嫌い)だから文系を選んだ。文系の中で、もっとも偏差値の高い人は法学部を目指す(その頂点が東大文Iである)。以下、経済、教育、商学ときて、一番下が経営学部。自分の偏差値で入れるところは、○○大学の経営学部だった」。
つまり、消去法で自分の進路を選択しているわけである。少なくとも、経営学が好きだから専攻したわけではない。理系の多くが、「物理が得意だ」とか、「生物が好き」と言うような理由で進路を決めているのとは大きな違いである。
もちろん、偏差値で人の能力が正しく分かるわけではない。しかし、文系の中で、経営学は最も偏差値レベルの低い学部にランク付けされていることが、経営学軽視の第一の理由である(と思う)。
第二の理由。それは、経営学が学問として認知されていないことによる(特に日本では)。そもそも、科学(Science)には、自然科学(Natural Science)と、社会科学(Social Science)の二つの領域がある(人文科学も入れれば三つ?)。しかし、経営学が含まれる社会科学は、日本では科学とは認められていないようである。
例えば、筆者の記事が掲載される朝日新聞WEBRONZAの「科学・環境」ジャンルにおいても、タイトルにある科学とは、恐らく自然科学を想定しており、社会科学を含んではいないだろう(たぶん)。
本稿の(上)にも書いた通り、経営学の法則は、人間社会の中のモヤモヤした曖昧な現象の中にボンヤリと見え隠れするのであり、物理や化学の法則のように厳密ではないし再現性もない。しかし、物理や化学とは違った面白さがあるし、それなりに有用である。
少なくとも、研究方法は、物理や化学と同じロジックで行う。つまり、ある現象に着目し、先行研究を調べ、新しい仮説を立て、調査を行い、仮説を検証する。調査の部分が、物理や化学は実験であるのに対して、経営学の場合はヒアリングなどに置き換わるだけである(ヒアリングなどという曖昧な調査方法だから信用ならないという意見もあろうが)。
ここで、一つお断りをしておくが、筆者は経営学の信奉者でもないし擁護者でもない。筆者が言いたいのは、経営学はそれなりに面白いし、マネジメントに関する研究や法則のように企業活動などに有用なものも多いから、自分の仕事をより効果的に進めるために、偏見を持たずに学んでみたらどうかと言うことである。ピーター・ドラッカーを広めた「もしドラ」は、経営学が役に立つことをわかりやすく世に広めた。このような本を契機にして、経営学の世界を覗いてみればよいと思う。
さらに、自然科学者と社会科学者の連携、その複合領域の開拓も有意義だと思う。例えば、日本半導体をはじめ日本エレクトロニクスは国際的な競争力を喪失してしまった。これら企業および産業競争力の回復及び向上のためには、これまでと同じように技術開発をやっていてもダメである。経営学者(もちろんまともな学者)と、技術者および経営者が共同で、次世代戦略を立案したらどうだろうか。そして、大学では経営学の基礎を教養課程の必須科目にしたらどうかと思うが、いかがであろう。