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そうか、俺は社長に謝ってほしかったんだ

朝日新聞WEBRONZA 2013年7月16日
 7月5日、日産財団にて、「なぜ日本半導体は壊滅したか」というタイトルで講演し、デイスカッションおよび懇親会を行った。参加したメンバーは、日産関係者5人、NPO法人「次世代エンジニアリングイニシアチブ」関係者3人、独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」関係者3人、それに私の合計12人だった。

 注目すべきは、NEDO関係者の中に現在理事長で、2006年から2009年まで日立製作所の第8代社長を務めた古川一夫氏が参加していたことである。古川氏は日立の社長時代に、日本の製造業史上最大の赤字7873億円を2009年3月期に計上したことでも知られている。

 主催者からは、日立の元社長に気兼ねすることなく、半導体業界の内部観察者として、凋落の原因を事実に基づいて指摘するよう依頼されていた。

 私は、いつも通りの自己紹介から始めた(図1)。
 
 
 私は、日本半導体が黄金時代にあった1987年に日立に入社し、2002年10月に退職するまでの16年半、主として半導体メモリDRAMの微細加工技術の開発に従事した。  

 その間、中央研究所、半導体事業部(武蔵工場)、デバイス開発センター、NECとの合弁会社エルピーダへの出向、民間コンソーシアムの半導体先端テクノロジーズへの出向と、部署を転々とした。そうしている間にも日本のDRAMシェアは低下の一途を辿り、私はまさにDRAMの凋落とともに技術者人生を歩んでしまった。

 そして、2000年に日本がDRAMから撤退した後、日立は「40歳で課長職以上は全員責任を取って辞めて欲しい」という早期退職勧告を行った。その結果、たまたま40歳で課長だった私は日立を辞めることになった。

 ただし、次の転職先を探すのに苦戦したため、辞表を出したときは早期退職制度の期限を(確か)1週間ほど超過してしまった。それ故、早期退職制度を使うことができず、自己都合退職が適用され、本来なら年俸の2年分(2500万円)が上乗せされたはずの退職金は、たったの100万円になってしまった。

 私は年間20〜30回ほど講演を行うが、通常はこのような自己紹介をすると会場には驚きとともに笑いの渦が巻き起こる(特に外国人には大受けする)。しかし、今回は、日立の元社長がいたこともあったせいか、会場は凍りついたようになった。

 自己紹介の後、日本半導体(特にDRAM)が壊滅した原因を説明した。その要点は次の通りである(図2)。
 

 1980年代に日本がDRAMシェア世界一になったとき、その用途はメインフレームであった。メインフレームメーカーは、DRAMメーカーに対して、25年保証の壊れない高品質DRAMを要求した。驚くことに日本メーカーは、そのような壊れないDRAMを本当につくってしまったのである。そのとき、日本メーカーの開発センターや工場には、品質の極限を追求する技術文化が定着した。

 1990年代に入ると、コンピュータ業界には、メインフレームからPCへパラダイムシフトが起きた。これとともに、DRAMへの要求事項に変化が起きた。PC用DRAMに必要なことは、低価格品を大量につくることであった。25年保証などの高品質は全く必要なくなった。

 PC出荷台数の増大とともに、成長してきたのは韓国のサムスン電子である。サムスン電子は、チップ面積を小さくする、微細加工の回数を減らす、装置の処理効率(スループット)をあげるなどの技術を向上させることによって、(25年保証などは必要ない)PC用の低コストDRAMを大量生産した。そして1992年に日本を抜いてDRAMシェアトップに立った。

 1995年以降、私は実際にDRAM工場に勤務していたが、日立をはじめ日本は、PCおよびサムスン電子の成長を知らなかったわけではない。にもかかわらず、相変わらず日本は(PCには全く必要のない)25年保証の高品質DRAMをつくり続けてしまった。なぜなら、あくまで日本メーカーの最重要顧客はメインフレームメーカーだったからである。したがった、日本メーカーはメインフレーム用につくった25年保証の高品質DRAMをPCにも販売した。その結果、主戦場となったPC用DRAMで、日本はコストでサムスン電子に完敗した。

 一言でいえば、日本DRAMメーカーは、コンピュータ業界のパラダイムシフトに対応できなかったために壊滅したのである。または、日本はサムスン電子の安く大量生産する破壊的技術に駆逐された、つまり、イノベーションのジレンマに陥ったということもできる。

 この私のプレゼンに対して古川氏は、「日本のDRAMがなぜ壊滅したのか、今まで非常にもやもやしていたが、図2を見てその理由が明確にわかった」とコメントした。そして、懇親会の席では、私が退職するときの日立の冷酷な処置について、当時の社長は古川氏ではなかったにもかかわらず、「湯之上さんには、本当に申し訳ないことをしました」と頭を下げて頂いた。

 この瞬間に、私の中に怨念のように10年以上もしつこくこびりついていた”わだかまり“が、何だかきれいさっぱりと消え去った気がした。講演会の帰り道に一つの結論に達した。「そうか、俺は社長に謝ってほしかったんだ」と。

 昨年来、半導体や電機メーカー各社で膨大な数の社員がリストラされている。彼らに必要なのは、まず第一に、Face to Faceによる社長からの心からの謝罪なのではないか。