特許弁理士もつらいよ
日本の電機および半導体産業が大崩壊し、どこもかしこもリストラの嵐が吹き荒れているのは皆さんご存知の通りである。私の友人知人にも多数の該当者がおり、誰はいつ辞めたとか、彼はどこへ転職したとか、そんな話が飛び交っている。
そのような中、オランダの半導体製造装置メーカーASMLの特許部(勤務地は日本)に所属する弁理士Aさんから、会社をクビになって転職したとの連絡を受け、大変驚き、会って食事をしながら話を聞いた。
ASMLは、半導体の微細加工装置の一つ、露光装置を専門に開発し販売している。1980〜90年代は、この分野はニコンとキヤノンが世界1位、2位であった。特にニコンは世界シェア50%以上を占め、装置業界の“帝王”と呼ばれていた。
ところが、90年代後半から急成長してきたASMLが2002年にニコンを抜き去り、今では世界シェア80%と独占状態を築きつつある。すべての半導体製造装置の売上高でも、2009年に東京エレクトロンを抜いて世界2位となり、2011年には1992年から首位の座に君臨していた米アプライド・マテリアルズを追い抜いた(ただし2012年にはアプライドが抜き返した)。
これほど急成長し、業績好調なASMLの特許部に在籍していたAさんが、なぜクビに?と私は驚いたわけである。
Aさんの話では、オランダ本社の上司が変わった途端、あっさりクビを宣告されたのだそうである。日本の半導体業界が壊滅しつつあることから、日本に特許部員は不要と判断されたらしい(AさんはASML唯一人の日本人特許弁理士だった)。
外資系メーカーでは、不況になった途端に、「明日から来なくていいよ」とレイオフされることは珍しくない。シリコンバレーではよく聞く話である。しかし、会社全体の業績は非常に好調であり、また日本には日本の慣習がある。突然クビを言い渡されたAさんが驚くのも無理はない。
ASMLを辞めたAさんは、一旦200人規模の特許事務所に転職したという。ところが、毎日、特許明細書の出願処理を淡々とこなすだけ。一日中、誰とも話をすることもなく、ただひたすら単調な出願業務に終始し、「自分はベルトコンベアーの作業者なのか?」と悩み、 鬱状態になったという。しかも、その単調な“作業”すら、明日も自分の割り当てがあるかどうかの保証はないというのである。
恐らくAさんはASML時代に、発明者との面談、明細書の作成、どの国にいつ出願するか、審査請求はいつするか(しないか)、ニコンやキヤノンの特許にどう対処するか、という仕事を一手に行ってたのだろう。ところが、200人の特許事務所では、役割分担がなされ、ひとたび「出願処理」を担当することになれば、淡々とそれだけをこなすことになるのだろう。しかも、この後明らかにするが、その仕事量は確実に減るのである。
そこで密かに再び転職活動を始め、フランスに本社がある石油関係企業の特許部に就職することに成功した。一段落したところで私に連絡を取り、冒頭の通り、食事をしながらその内明け話を聞かせて頂くことになったわけだ。
Aさんが日本の特許事務所に嫌気がさして、再び外資系企業の特許部に就職した理由については、日本の特許出願数と弁理士数の推移を見れば一目瞭然である(図1)。
特許も実用新案も第二次大戦以降、出願件数が増大している。実用新案は1986年以降急激に減少するが、特許出願の増加は続く。しかし、2001年をピークとして減少に転じる。2001年から2010年までの約10年間に、何と約10万件も減っている。
一方、弁理士登録数も第二次大戦以降、増大している。そして1999年辺りに変曲点があり、増大の傾きが大きくなっている。特許や実用新案の出願件数が減少しているにもかかわらず、である。
その結果、どういうことになるか? 読者諸賢は容易に想像がつくと思うが、単純に弁理士一人当たりの出願件数が減るのである(図2)。
1986年に弁理士一人当たり180件近くあった出願件数は、2010年には40件以下になってしまった。この減少傾向はその後も続いていると思われる。
つまり、弁理士の世界では、減少する特許出願を巡って過当競争が起きている。Aさんが特許事務所を辞めて外資系の特許部に転職した理由はここにある。
減少する特許出願。増えすぎてしまった特許弁理士。国家資格の弁理士という資格を持っていても、今後この世界で食っていくのは容易なことではない。電機や半導体の技術者だけでなく、特許弁理士もつらいのである。