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自然科学の論文も社会科学の論文も歪んでいる

朝日新聞WEBRONZA 2014年5月12日

 自然科学と社会科学の差を問われたとしたら、私は、「論文の著者の数」と答える。自然科学の論文では共著がほとんどであり、しかもその著者数が多い。一方、社会科学論文では基本的に著者は一人、つまり単著である。これが、自然科学と社会科学の大きな差であると思っている。

 私は物心ついてから理系の道を歩み、大学は理学部物理を卒業し、大学院は工学部を修了して、半導体技術者になった。その間、理工系の論文をせっせと書いてきたが、単著の論文は一つもない。多くが5~6人の共著の論文である。その理由は、サンプルの作成、実験の遂行、結果の解析に、多くの協力者を必要とするからである。

 世間の自然科学の論文を見てみると、例えば、新規の半導体デバイスの開発などの場合には、関わった研究者や技術者をすべて列挙するため、著者の数が十数人 ~数十人以上にもなる論文も珍しくない。さらに、加速器を使った素粒子実験では、著者数が千人を超える論文もあるという。

 このように著者数が多い自然科学論文では、本来なら共著者になる資格はないのに、研究室のボス教授や所属部署の部長などの上司を、当たり前のように共著者に加えるケースも散見される。

 前回の記事で、理化学研究所の笹井芳樹氏のギフトオーサーシップの問題を取り上げたが(WEBRONZA 2014年4月21日)、それはこのような歪んだ自然科学論文の風潮から生じたのかもしれない。

 一方、単著が基本の社会科学論文もまた歪んでいる。私は、日立製作所を辞めた後に、同志社大学の社会科学(経営学)の教員となった。その際に、論文の著者数の文化の差に、大きく戸惑った。その経緯を紹介したい。

 私は、社会科学の何たるかをまるで知らずにその世界に飛び込んでしまったわけだが、研究をしているうちに、自然科学と社会科学は、研究の対象が異なるだけでその方法論はまったく同じだと思い始めた。

 自然科学では、まず、未解明の自然現象に着目してある仮説を立てる。次に、その仮説を解明するための実験を考案し遂行する。そして実験結果を分析して仮説を検証し結論を導き出す。

 社会科学でも上記の研究の方法論はまったく同じで、異なるのは、仮説を解明するための実験が、ヒアリングやアンケートなどのフィールドワークに代わるだけである。ただし、自然科学の実験に相当するフィールドワークを再現することは困難なため、経営学は科学ではないという批判もある。ノーベル経営学賞が無いのはそのせいかもしれない(だとしたら、小保方氏以外の人が再現できないSTAP細胞論文も科学とは言えないのではないか?)。

 話が脱線したが、私が大きく戸惑ったのは、ヒアリングやアンケートなどのフィールドワークを複数人で行ったとしても、社会科学では、あくまでも「論文は一人で書く」という文化が貫かれていたことである。

 例えば次のようなことがあった。京大のある先生から、半導体メーカーの調査の協力依頼を受けた。そこで、私が知人の伝手を頼って、その調査の段取りを整えた。実は、大学の社会科学研究者にとって最も困難なことが、企業への調査のネゴシエーションであった。その際、半導体メーカー出身の私は実に便利な存在だったのである。友人知人や元上司部下などの伝手を利用すれば、自由自在に調査依頼ができるからである。

 この京大の先生からは調査への同行も依頼され、また、「ヒアリングも湯之上がやってくれないか?」と懇願された。さらに、当時私は研究費をふんだんに持っていたこともあって、先生の京都-東京間の旅費も提供した。

 こうして行われたヒアリング結果を基に、この京大の先生は、単著で論文を書いたのである。さすがの私もこれには腹を立て、この先生のボス教授に異議を申し立てに行った。ところがこの教授は、「湯之上の言うことも分かるが、それでも社会科学は単著を貫く。単著で論文が書けるような道筋を探し求める と言ってもいい」と言った。

 憤懣やるかたない私は他の先生にも聞いて回ったが、次のような意見もあった。「経営学の論文というのは小説だと思えばいい。小説は2人で分担して書かないだろう。必ず1人で書くだろう。そういうことだよ」。これに懲りた私は、その後二度と調査協力の依頼には応じなかったことは言うまでもない。尚、このような社会科学論文の単著主義は、日本だけでなく海外でも同じような傾向にあると思われる。

 結論を述べよう。自然科学論文は著者数が多すぎる場合が多い。その際、ギフトオーサーシップが横行しているケースもある。一方、社会科学論文の単著主義もまた極端である。その論文に貢献しているなら、きちんと共著者に名前を加えるべきである。結局、自然科学の論文も社会科学の論文も、歪んでいるとしか思えない 。