「文系の組織見直し」は関係教員の怠慢が原因だ
理系人間が見た、文系と理系のあまりにも大きな差
「文系の組織見直し」は自業自得
文部科学省が、国立大学の教員養成系や人文社会系(まとめて文系と呼ぶ)の組織見直しを迫っている。これに対して、日本学術会議は反対声明を発表した。
しかし私は、この「反対声明」に反対であり、文科省の方針は止むを得ないものと判断している。というのは、組織見直しを迫られるような事態を引き起したのは、文系教員の長期にわたる怠慢が原因であり、つまり、文系教員の自業自得であると思うからだ。
私は理数系が好きで、高校は理数科に入り、大学では農学部に入学した後、理学部へ転部して数学と物理を学び、原子核工学科の修士を卒業した。その後、日立に入社し、16年ほど半導体技術者として勤務した。要するに、そこまで一貫して理系の道を歩んできた。
ところが、ITバブルの崩壊により、2002年に日立を早期退職することになった。家族もおり、家のローンもあり、それで仕事を探していたところ、同志社大学に新設される経営学研究センターにポストがあって推薦してくれる教授もいたため、経営学の「け」の字も知らないのに、経営学の教員となってしまった。その同志社大学に4年半間勤務したが、その経営学は実にヒドイ世界だった。
本稿ではその体験を基にして、「文系の組織見直し」は自業自得と判断する理由を述べてみたい。
文系学生はどのくらいいるか
まず、1960年から2012年までの専攻分野別大学生数の推移を見てみよう(図1)。
1960年に約60万人だった大学生数は、その後、増大していき、2005年に250万人を超えたあたりで飽和し、2012年まで250万人超の状態が続いている。
問題となっている文系(人文、社会、教育)の合計の学生数も、1960年の約40万人から増大していき、2000年には150万人を超える。2005年以降は、150万人弱当たりを推移している。学生全体に占める文系学生の割合は、1960年に66%だったが、少しずつ低下して2012年には55%になっている。
ここから言えることは、文系学生の割合は微減の傾向にあるが、それでも学生全体の過半(55%)を占め、その学生数は150万人弱もいるということである。須藤靖氏の論考(『人文・社会科学と大学のゆくえ』、2015年8月6日)では、東大における文系の割合は少ないとのことだが、それは日本全体の傾向からすると、特異な例であると言える。
卒業生の進路
次に、専攻分野別大学生の卒業生の進路を見てみよう(表1)。
学部、修士、博士を合計すると、2012年の卒業者数は653,663人、進学者は73,427人、就職者は425,310人となる。
このうち文系は、卒業者数344,292人(52.6%)、進学者数16,206人(22.0%)、就職者数233,617人(54.9%)である。
ここから、日本の大学の新卒で就職する者の半分以上(54.9 %)が文系であることが分かる。この傾向は、これまでも長らく続いてきたと思われるから、日本の労働力の過半数以上が文系で占められているということである。したがって、彼らが日本の競争力に与えるインパクトは大きいと言えよう。
では、文系の学生は、大学でどのような先生からどのような教育を受けているのだろうか?
あまりにもレベルの低い日本の経営学
経営学の先生になって、はじめに行ったことは、片っ端から本や論文を読み、学会やセミナーに出席したことである。クリステンセン、ドラッカー、ポーターなどの本は、大変面白く、夢中になって読みふけったし、その後のコンサルタントの仕事でも大いに役に立っている。
しかし、私が研究分野に選んだ半導体関係においては、日本の経営学の論文は読むに堪えず、学会発表も聞くに堪えないものだらけだった。
例えば、ある教授はシャープの組織を詳細に調べた発表を行った。しかしそれだけである。思わず、「この発表に何の意味があるのか?」と問うと、「シャープの組織をここまで詳しく調べた例はない」と自信満々に答えるのである。「そんなものシャープ関係者なら誰でも知っているだろう、阿呆」と心の中で毒づいた。
またある教授は、サムスン電子の組織を詳しく調べた結果を発表していた(また組織だ!)。その中で、「6インチワイパーがどうした」とか「8インチワイパーがどうした」ということを盛んに話していた。ちょっと意地悪な気持ちが起きて、「ワイパーって何ですか?」と質問すると、「君、元半導体技術者なのにワイパーを知らないのか。ワイパーというのは、シリコンの円柱形の単結晶をスライスして円盤状にしたモノのことだ。これに半導体チップをつくり込むのだ」と得々と説明した。それは、ワイパーではなく「Wafer(ウエハ)」というのですよ。恐らく韓国人の発音が「ワイパー」に聞こえたため、それをそのまま論文にも書き、発表してしまったのだろう。
また、半導体の技術について調べている論文も多いが、頓珍漢なものばかり。それで、半導体製造に関する技術には、①成膜、リソグラフィ、エッチング、洗浄、検査などの要素技術があり、②要素技術を組み合わせて500~1000工程に上るプロセスフローを構築するインテグレーション技術があり、③そのプロセスフローを基に歩留りを向上させる生産技術がある、ということをある教授に解説すると、「おお、それは大発見だ」と驚かれた。私はそのことに驚いた。なぜなら、半導体の技術者なら誰でも知っているからだ。そんなことも知らずに10年もどうやって半導体技術の研究をしてきたのか。
左団扇の経営学教授
私は同志社大学と兼任で、長岡技術科学大学(工学部)の客員教授も務めていた。その経験から言って、理工系の先生に比べると、文系の先生は、天国のように楽ちんである。
基本的に理工系の先生は、実験装置があるので毎日、大学に行き、学生の指導を行わなければならない。ところが、文系の先生は、教授会のある日と講義またはゼミのある日しか大学に来ない。1週間に2~3日も来ればいい方で、教授会のある日に講義を行うようにして、1週間に1日しか来ない先生もいる。
理工系は実験装置にやたらと金がかかるため、外部資金の獲得に精を出さなくてはならないが、文系に必要なのはせいぜいパソコンぐらいで金にあくせくする必要がない。
中村多美子氏の論考に、「十年一日のごとく、方向性も見えなければ起伏もない講義を法学部の大教室で聞き続ける日々に、私のもともと乏しい忍耐力はあっというまに尽きてしまった」(『大学の人文社会科学系のあり方への体験的注文』、2015年8月7日)とあるが、多くの経営学の講義もこれと同じようなものである。
さらに、理工系の先生は、実績を上げないと外部資金が獲得できないため、論文を連発し続けなければならないが、文系の先生は1年に紀要(学内の論文)を1本書いていればいい方ではないか?
私が勤務したのは私学の同志社大学だが、国立大学でも事情は同じようなものだろう。
どんな学生が来るのか
「なぜ、あなたは経営学を専攻したのか?」ということを、先生にも学生にも聞いてみたことがある。すると、ほとんどの方が次のような答えをした。
まず、高校3年生で理系と文系を選択する際、数学が苦手で嫌いなので、消去法で文系を選んだ。次に、受験する大学や学部をどのように決めたかというと、自分の偏差値を基に、これも消去法で決めて行ったという。偏差値が高い学生は法学部を志す。逆に偏差値の低い学生は、商学や経営学を受験するという。
東京大学名誉教授の林周二氏は、『研究者という職業』(東京出版)の中で、次のような(驚くべき)ことを書いている。
…まず僕のような社会・人文科学分野は、数物・自然科学の分野に比べて、高等学校時代の優秀な学生が集まる度合いが平均的に少ない。また同じ社会科学のうちでも、経済系でいうなら、経済学より経営学系の方が平均的に能力の低い連中が集まってくる。また経営学の領域内では、準経営学よりも商学・マーケテイング系が、さらには会計学系が、の順でそこへ研究者として集まる者の質が落ちる…
…諸君の専攻分野は経済系のうち相対的にレベルの最も低い連中のくるところだから、諸君はそういう事実を逆手に取って活かせ。君たちはこの分野で努力すれば、競争仲間連の質が他の分野ほどには幸いに高くないから、この分野なら多少頭脳レベルが劣る者でも頭角をあらわすことが、他の分野よりも研究者として容易である…
ひょんなことから経営学の先生になってしまった私は、大きな衝撃を受けた。
負のスパイラル
ここまでの議論をまとめると、文系を志す学生は、消去法で専攻を決めることが多く、理工系に比べると偏差値レベルで劣る傾向があるということである。
そのような、あまり学力レベルの高くない学生が多数存在する文系において、関係する教員たちの研究レベルは(少なくとも経営学においては)あまりにも低い。研究能力と教育能力は必ずしも一致するわけではないが、まともな研究がなされていなければ、まともな講義もできないであろう。
経営学での経験を文系全般に当てはめるのは乱暴かもしれないが、文系では全体的にレベルの低い学生が集まり、教員による教育レベルも研究レベルも低い、だから低レベルのまま学生は就職し、教員になる者も低レベルを受け継ぐ、というような負のスパイラルが続いてきたと推測できる。
文科省が「文系の組織見直し」を迫ってきたわけだが、その原因は、低レベルの研究と教育を続けてきた教員の怠慢であると言わざるを得ない。