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エピソード・来歴

 島田第三小学校6年生の時、「ゴキブリの研究」により静岡県知事賞を受賞。中学時代に読んだ『ゴキブリの話』(石井進、岩波新書)に感動して京大農学部を目指すことを決意。理科と数学が好きだったことから清水東の理数科に進学。父親の転勤により高1のときから一人暮らしを始める。

 
1981年、念願の京大農学部に入学するも石井教授はすでに定年退官していた。昆虫学に端を発して生命科学を志すもその専門書は数学と物理学の知識が無いと読めないことを知る。一念発起し3回生に進学する際、試験を受けて理学部数学科へ転部する。しかし理学部の数学は一種の芸術であり、道具としての数学ではないことから、すぐに理学部の物理学科へ鞍替えする(京大理学部は学科間の移動は自由)。原子核物理学を卒業研究に選択し、1985年に主として物理学を修めて理学部を卒業する。
 
1985年、京大工学部原子核工学科の修士課程に進学。大阪府泉南郡熊取町にある原子炉実験所で超冷中性子を研究テーマに選ぶ。1987年に修士課程を卒業。
 
1987年4月、日立製作所に入社。最初の配属先は東京国分寺市の中央研究所。最初の研究テーマは半導体の微細加工に用いるドライエッチング装置のプラズマダメージの研究。次に荷電粒子を用いない中性粒子によるドライエッチング装置の研究開発を行う。
 
1995年、半導体事業部の武蔵工場に異動。プロセス技術開発部のドライエッチング・グループに所属し、4~16M-DRAMの生産技術と、強誘電体メモリー「FeRAM」の開発に関わる。特にFeRAM用電極材料のプラチナ(Pt)エッチングに成功し、学会に名前が知れ渡った。
 
1998年、デバイス開発センタへ異動。プロセス開発部のドライエッチング・グループに所属し、Cu/Low-kデユアルダマシン配線加工技術の開発と、1G-DRAM用微細加工技術の開発に関わった。
 
2000年、日立とNECによるDRAM合弁会社、エルピーダメモリへ、ドライエッチング・グループリーダーとして出向(最出向社員800人中、志願者は湯之上ただ一人だった)。NECと大バトルを繰り広げる。(詳細が2012年1月から開始したメルマガに書かれている)
 
2000年1月、京都大学より工学博士授与。学位論文は、「半導体素子の微細化の課題に関する研究開発」。
 
2001年、(株)半導体先端テクノロジーズ(セリート)へ出向。このコンソーシアムの目的は「日本半導体の復権」であったが、「まったく無理」と判断。出向元の日立から早期退職勧告を受けたこともあって、2002年10月に日立を退社。ただし、転職活動に手間取ったために、早期退職制度期間中に退職できず自己都合退職となり、3000万円以上のはずだった退職金は、たったの100万円になる。
 
2002年10月、株式会社半導体エネルギー研究所へ転職。特許のギネス記録を持つ山﨑舜平社長と波長が合わず、2003年1月には「明日から来ないでくれ」と言われ、2003年3月に退職。
 
2003年4月~2009年3月、長岡技術科学大学の極限エネルギー密度工学研究センターの客員教授に就任。高密度プラズマを用いた新材料の創生に関する工学研究とその修士課程の学生指導に従事。
 
2003年10月~2008年3月、同志社大学に新設された技術・企業・国際競争力研究センターの専任フェローに就任。技術者の視点から、半導体産業の社会科学研究に従事。
 
2007年7月~9月、「半導体の微細化が止まった世界」の研究のため、世界一周調査旅行を敢行。
 
2008年4月~9月、株式会社オムニ研究所イノベーション推進本部本部長。
 
2008年末~2011年9月、株式会社エフエーサービス半導体事業部技術主幹。
 
2009年8月、光文社より『日本「半導体」敗戦』を出版。
 
2009年年末、株式会社メデイアタブレット取締役
 
2010年夏、微細加工研究所を設立、所長(主たる業務はコンサルタント、調査・研究)。
 
2011年8月、界面ナノ電子化学研究会(通称NICE)の公認アドバイザー
 
2011年9月、第三種放射線取扱主任者の国家資格取得
 
2011年10月、株式会社エアージャッジを設立、CTO、放射線検出器の開発、販売、製造(~2012年7月)。