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インテルの栄枯盛衰から何を学ぶか
死去した元会長アンディ・グローブの余りにも強すぎた影響力

朝日新聞WEBRONZA 2016年4月21日

 インテルを半導体売上高世界1位の企業に成長させた元会長のアンディ・グローブが3月21日、79歳で亡くなった。
 
 「偏執狂(パラノイア)のみが生き残る」という名言で知られる彼はどのような経営手法で世界一の半導体メーカーを築き上げたのか。また、スマホの普及とともにインテルは窮地に立たされたが、そのような事態になったのはなぜか。
 
 本稿ではインテルの歴史を振り返ることにより、これらを明らかにしたい。
 
 

インテル創業

 
 インテルは、1968年にフェアチャイルドセミコンダクターを退職したロバート・ノイスとゴードン・ムーアが創業した。社名は、「Integrated Electronics」を縮めた造語からつけた。
 
 ノイスは半導体集積回路(IC)の発明者の一人である。2000年にジャック・キルビーがノーベル物理学賞を受賞したが、私はノイスの発明の方がより現在のICに近いと思う。もし、ノイスが健在だったら、共同受賞になったと思われる(実際は、1990年に死去)。一方、お馴染み「ムーアの法則」で知られるムーアは、半導体メモリDRAMを開発した。
 
 グローブは、ハンガリーのユダヤ人家庭に生まれた後、ナチス・ドイツの迫害を逃れて亡命し、オーストリア国境をくぐり抜け、最後は米国にたどり着いた。そこから猛勉強をして、ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学し、化学工学を学んだ。そして、1963年にカリフォルニア大学バークレー校から化学工学の博士号を取得してフェアチャイルドセミコンダクターに入社した。その後、インテルに第1号社員として加わり、有名な「三人組」体制が誕生した。
 

 
 

ロバート・ノイスCEOの時代(1968~1975)

 
 初代CEOノイスの元、インテルは創業から3年間で矢継ぎ早に64ビットSRAM、1キロビットDRAMなど現在の主要半導体のほとんどを開発、発売した。
 1974年に発売した4キロビットDRAMは、82.9%のシェアを占め、半導体メモリ企業のトップに立った(図2)。
 

 
 この時代、グローブは製造現場の実権を握り、マーケティングと営業以外は全権を掌握していると言われた。
 
 

ゴードン・ムーアCEOの時代(1975~1987)

 
 2代目CEOムーアの初期まで、インテルはDRAMメーカーだった。この時代に開発した16キロビットの単一電源DRAMは、他社が追随できず、他社の倍の価格がついた。
 
 しかし、1980年代に日本メーカーが大挙して参入してくると、インテルは急速にシェアを失い、1984年には1.3%にまで低下した。ムーアはDRAMの推進を主張したが、COOだったグローブがこれに反対し、1メガビットDRAMの開発を中止させ、自らDRAM事業撤退の責任者になった。つまり、グローブはCOOであるにもかかわらず、CEOを差し置いて君臨しはじめていた。
 
 

アンディ・グローブCEOの時代(1987~1998)

 
 グローブがCEOになると、恐怖政治により強烈な中央集権体制をつくり上げ、これが“インテル・カルチャー”として隅々に浸透していった。もはや社内には、独裁者グローブに逆らう者はいなくなった。
 
 グローブは、「偏執狂(パラノイア)のみが生き残る」という信念のもと、インテルが進むべき戦略の方向を指し示し、すべての社員のエネルギーを徹底的に搾り取って収束させようとした。
 
 ロバート・A・バーゲルマン著『インテルの戦略』(ダイヤモンド社)から、インテルを退社した幹部の発言を拾ってみると、驚きのオンパレードである。「彼の前では誰でもがこき下ろされた」、「彼の言葉に人々は怯えた」、「彼が一度決定したら一切覆すことができなかった」、「自分のやり方ですべてのものを押しのけて進んだ」、「自分のやり方に合わない人には、邪魔だといった」…。
 
 グローブは、COOにクレイグ・バレットを起用し、彼の役割を「ミスター・インサイド」と表現して、自分の戦略を完璧に遂行させた。社内のすべての報告がグローブとバレットに上げられ、すべてをグローブが決定した。
 
 こうして一切の容赦なくPC用プロセッサへ戦略を集中した結果、インテルは売上高世界一の半導体メーカーへと成長していった。
 
 

クレイグ・バレットCEOの時代(1998~2005)

 
 グローブの忠実なCOOだったバレットが4代目CEOになると、グローブは代表権のある会長になった。
 
 世の中にはインターネットや携帯電話が普及し始めていた。バレットは多数の企業買収により、携帯電話やインターネット関連企業へ転換を図ろうとした。しかし、買収した企業の幹部のほとんどがインテル・カルチャーに馴染めず早々に辞めていったという。その結果、バレットの新規事業の試みはすべて失敗に終わった。
 
 東芝出身で現在スタンフォード大学にいる西義雄教授は次のようにコメントしている。「インテルがセルラー市場に参入し損ねていた2000年当時、私はテキサスインスツルメンツ(TI)のR&D総責任者をしていたが、インテルがTIと同じセルラーの土俵に上がってくる可能性はゼロと判断したのを覚えている。インテルの責任者とは親しかったが、彼がインテル・カルチャーの中でいかに苦労していたかということを知っている」。
 
 

ポール・オッテリーニCEOの時代(2005~2013)

 
 オッテリーニがCEOになると、バレットは会長へ、グローブは顧問となったが、グローブの影響力は依然として大きかったと思われる。まず、バレットは会長職を解任された。グローブの目には、新規事業の立ち上げに失敗し続けた彼が「邪魔だ」と映ったのだろう。
 
 一方、オッテリーニは2005年第2四半期から2012年第3四半期の間に記録的な売り上げ(388→540億ドル)を達成している。ところが、2012年11月に突如、辞任を発表した。なぜか?
 
 インテルは2004年ごろ、アップルから初代iPhone用プロセッサの製造を打診された。ところが、「1個10ドルではビジネスにならない」とオッテリーニは断ってしまった(因みにインテルのPC用プロセッサは200~300ドル)。
 
 これは、「インテル史上最大のミスジャッジ」と言われた。2007年にiPhoneが発売されると大フィーバーとなり、インテルの予想より100倍以上売れたからだ。その上、スマホの普及に伴ってPCの販売が不調となり、インテルは窮地に陥った(WEBRONZA 2014年12月16日)。オッテリーニは、グローブの逆鱗に触れて引責辞任を余儀なくされたと思われる。
 
 

インテルは新時代を築けるか

 
 結局、インテルの歴史を紐解くと、PC用プロセッサの大成功も、その後の新規事業の失敗も、グローブの偏執狂的なマネジメントとそれによって築き上げたインテル・カルチャーによることに行き着く。インテルとは、まさにグローブの会社だったと言える。
 2013年に6代目CEOに就任したブライアン・クルザニッチは2015年、FPGAメーカーの米アルテラを買収し、米マイクロンと共同で新型メモリ「3D XPoint(スリー・ディ―・クロスポイント)」を発表した。
 
 因みにFPGAとはField Programmable Gate Arrayの略で、チップを製造した後にプログラムが可能なプロセッサであり、ここ数年、データセンタ用プロセッサとして急浮上してきた。
 
 その狙いは、モノのインターネット(IoT)の普及により市場が拡大するデータセンタを制することにある。さらには、ビッグデータを扱う自動運転車、医療技術、4K~8Kのハイスペック・ゲームマシンなどへの進出も視野に入れる。
 
 インテルの逆襲が始まった。この逆襲が成功するか否かは、グローブが作り上げたインテル・カルチャーから脱皮して、クルザニッチCEOが新しいインテル文化を築くことができるかどうかにかかっている。